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桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」にこんな問いがでてくる。
 
 ある幸せな夫婦がいた。
 ところが、突然事故かなんかで、夫が死んでしまう。
 夫婦の間には子供が独りいた。
 夫の葬式のときに、夫の同僚がやってきた。
 未亡人は夫の葬式の時に、その同僚に一目ぼれして、相手もまんざらではなかった。
 ところが、とつぜんに、その夜に、未亡人の奥さんは、自分の子供を殺してしまった。
 それはなぜか。

 
 わたしは、直木賞作家桜庭一樹が、この小説以降に書いたどの小説も、この小説を超えていないと思う。越えることもないだろう、とすら思われる。
 それどころか、この小説は、いやしくも才能に恵まれ、そして幸運にも作家になることが出来た一握りの人たちが、生涯に一作書ければすごく恵まれていると思われるような大傑作、奇跡的な作品だと評価している。
 このような作品を人生の初期に書いてしまった作家は大変だろうな・・・ そう思う。
 まあ、初期も末期もないだろうが・・・
 
 で、その小説のこの問いかけだが、小説内の(人物の)説明によると、この問いの答え(・・・作中に書かれてある)が正解できる人物は・・・
連続殺人犯がそうであるような精神病質者、サイコパスかなんか・・・
である、というような問いであるという。
 
 ちなみに、わたしは、分からなかった。
 わたしは、人間の心が分からない、KYな、心無い人間である自覚がある。
 ・・・が、殺人犯になりうるようなサイコパスではないようだ、と読んだとき安心した記憶がある。
 あ よく考えてみれば、今思ったが、単にじゅうぶん条件が否定されただけである。
 わたしはサイコパス「であるかもしれない」がまだ分からない。
 
 この問いを久しぶりに思い出したのは、いろいろ興味があることを調べたときに、出会った次のような問いを見たときであった。
 
 小さい頃から玉子焼きが大好きな子供がいた。
 お母さんが久しぶりにその子のために玉子焼きを作った。
 上手に出来上がったその玉子焼きを、その子供が食べている。
 ・・・ので、お母さんは嬉しくなって、
「ひさしぶりで、おいしいでしょ?」
 と、話しかけた。
 すると、突然・・・その子供は母親を殴りつけた。
 さて、その理由はどうしてか?

 
 この問いは、ある気質・特徴を持つ人たちを鑑別する指標として、ある医者が書いていたものである。
 これを見たとき、わたしは「砂糖菓子・・・」の問いをすっかり思い出したのだった。
 ところで、その気質・特徴はぜんぜんサイコパスとは関係がありません。
 合併する可能性はあるのかもしれないけど・・・
 
 この問いの答えも、わたしは切実な意味で考えたのだが、答えが分からなかった。
 「砂糖菓子」のときも答えを見たとき、軽いショック感があった。
 わたしはそれを思いつかなかったが、答えを見たときにその答えの合理性というか・・・ 気持ちは分かった。
 この問いも同じである。
 答えは思いつかなかったが、答えを見たときに、「あ! あるある、ありうる」と思った。 ・・・つまり、気持ちが分かった。
 
 この二つの問いが印象的なのは、一種の心理テストのように見えながら、それを答えることができるというところに、その人の心の動き・意志の解釈を秘めていて、それを明確に構造として取り出しているにもかかわらず、何ていうか・・・
 非常に「臨床的」に見えるというか・・・
 こう、・・・人間の本質をついているという点である。
 単なる心理テスト以上のものだ・・・ と感じる。
 これを始めて思いついた人は、すばらしい発想・独創があるだけではない。
 人間心理を突き詰めて、ある極限的な悟りを得ているか、
 あるいは、「老子」のように、群衆の歴史的な知恵が、言葉となって結晶化して知的遺産になっているか、
 そのどちらかであるとわたしは思う。

 この問いだけで、意思について哲学することが出来る。
 本当に素晴らしい。

写真は、akiliusさま
「写真部」
PR
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 友達から聞いたのか、
 どこかの本で読んだのか忘れてしまったが、
 誰かが、
 「人生で必要な真理はすべて聖書に書かれてあり、
 ほかのいかなる本も知識も必要はない」
 と言ったことをぼくは覚えている。

 友達のキリスト教徒だったのか、
 それともぼくがキリスト教徒を比喩として作り出した話なのかもしれない。

 たった一冊聖書さえ読んでいればいい。
 人生で生きていくのに必要な知識や知恵はすべてそこに書かれてあり、
 すべての知識や知恵がそこに凝縮されているというのである。

 そればかりではない。
 世界のどこかにいる読者は、
 人生から得られる喜びや楽しみもすべてその聖書の読書から得ている。
 飽きることがないのだ。
 すなわち、世界のどこかにいるその人は、
 毎日まったく新鮮な喜びとエンターティメントと学習の楽しみを求めて、
 何度も何度も読んでほとんど空で覚えてしまっているような、
 擦り切れたただひとつの本に、
 毎日変わらない、新鮮な好奇心を向けながら、
 聖書を読んでいる。

 もちろん、時代は聖書が成立したときよりも遥かにすすんで、
 世の中は変わり、社会は複雑になった。
 電車の乗り方も、
 メールの出し方も、
 カードキャッシングのやり方も、
 聖書には書かれていない。
(反論はあるだろうが、ぼくはそう思っている)

 しかし、そんなことは「瑣末なことだ。
 そのつど新しく覚えていけばいいことであって、
 人生における本質的な知識ではない。
 技術的なものだ。
 やはり、人生におけるほとんどすべてのことは聖書に書かれている」
 というわけである。

「携帯電話が悪魔の機械だとは思わないが、そんなことについてまで神が配慮して自分の本に載せておくと期待する方が携帯電話に対する過大評価だろう? 携帯電話もインターネットも人生の現実を一ミリたりとも変えてはいない。やはり、そして、今も代わらず続いている人生の現実に対する対処手段は、すべて聖書に書かれているのだ」。

 真理とは出来るだけ最小限の量で、最大限の効果を生むように集められた、情報の集まりである。
 あるいは、方法である。
 これを新しいプラグマティズムにおける真理の概念であるとするなら、
 確かに聖書は真理である。
 聖書の中にかかれてあるさまざまな「幻想的な歴史や知恵」が
 本当のことであるかは大して重要ではない。
 神が存在するか、
 イエスが神であるかどうかも関係がない。
 ただし、この世の中にいる数万人の人々が
 恐らくただひとつの存在する「知識と満足のよりどころ」として
 「聖書を読書している」。
 その何万人もの聖書だけで生きている人の存在の結果こそが、
 聖書の量と効果の真理性を証明している
 と考えることが出来るからである。 
 「人はパンのみに生きるものにあらず」。

 その話を聞いたか、読んだかしたときに。
 じゃあ、それはコーランでもいいんじゃないか。
 あるいは、ドフトエフスキィの「カラマーゾフの兄弟」でもいいんじゃないか。
 そういうふうに、ぼくは、話をしたか、考えた記憶がある。
 ぼくの考えでは、コーランに関してはまだ意見を保留しているが、
 「カラマーゾフの兄弟」は、聖書に肉薄するか、
 あるいはそれ以上の、真理の量と効果を含んでいる(と思っている)。
 「カラマーゾフの兄弟」だけしか読まない誰かがいて、
 ただただ、「カラマーゾフの兄弟」からのみ
 人生の生きる方法を汲み取って生きていることはありうる。
 ぼくはそう信じているのである。
 あるいは、ナチスの兵隊が戦場にただ一冊の本を持って戦ったという、
 ニーチェの「ツァラツストラはかく語りき」でもいい。

 ぼくが言いたいのは、
 その人生を生きていくのに最小限必要な一冊の本は、
 虚構の本でもいいのではないかという提言である。
 小説でもよい。
 それは、作者自身が本当のことを書くつもりで書いた本ではない。
 確かにたくさんの知識や知恵は詰め込まれているが、
 そういう意図とは別に、創作の物語として書かれた本である。
 ジョンレノンを殺した男は、
 サリンジャー著「ライ麦畑でつかまえて」を
 世界中に普及させる活動に身を投じた。
 この男にとって、「ライ麦」は人生で生きていくのに
 必要なすべての情報がかかれてあった本であったろうと思う。
 
 ここで重要なことは、恐らくこういうことだ。
 ぼくらが、
 それらの人生を生きていくのに最小限の真理を含んだ、
 或る最小限の量とある最大限の効果を持ったそれらの本のどの一冊をとっても、
 ぼくらが同じように、
 ただし同じようなあり方ではないが、
 生存して何らかの意味で生きていき続けてそして或る死に方で死ぬことを可能とする意味で、
 どの一冊を選んだところで代わりがないという事実である。

 聖書を選ぼうが、コーランを選ぼうが、
 生きていけるという結果にはまったく変化がない。
 その知識と知恵の詰まった情報の集まりは、
 それぞれが本質的に異なっており、
 重なることもなく、多くの場合矛盾しているにもかかわらず、
 結果それで生きていくことができるというプラグマティックな恒常性の元で、
 まったく互換可能であるということ、
 これがまず第一に重要な事実である。
 つまり、この意味で、真理は多数あるということ。
 そしてまた、ただし、そのどれかを一度選んでしまったら
 もはや別のものを選ぶことは真理から遠ざかる結果になってしまうであろうこと、
 すなわちその他の重要性を持つ情報の集まりは
 その真理性を失ってしまうこと、
 つまり仮に聖書を選んだとしたらその時から
 瞬時に時間的にはまったく事後的に遡ってコーランの真理性、
 いやその他のすべての真理性が取り消されてしまうこと、
 この選択による真理性の事後的な変化が、
 プラグマティックな真理における第二に重要な事実である。
 つまり、やはり真理はひとつしかない。

 このことは恋愛に、恋愛相手を探すときの事情に似ている。
 ぼくたちは、この世界に存在するすべての異性一人一人との生活が
 すべて理論的に可能であり、
 それぞれの異性との生活がすべて恋愛として正しく成立することを知っている。
 つまり、ぼくの正しい恋愛相手とは多数存在する。
 しかしながら、もし仮にぼくが本当に恋愛しようとして、
 恋愛相手を探そうと考えて、恋愛するとき、
 その時だれかに瞬間的にせよ恋愛したそのまさにその時に、
 その他の相手との恋愛は正しくなくなる。
 これは単に異性である相手からそのように要請されるだけではなく、
 自分の精神の恒常性のためにも完全に必要とされることなのであり、
 それが恋愛という生理的現象における正しい位相的な構造なのである。

 しかし、逆に言えば、恋愛が、いや愛が
 このような構造を持っているがゆえに、
 真理もまた愛とまったく同じような構造を持っている、
 そのようにいえるのかもしれない。

写真 akiliusさま
「写真部」
 ゴシックロリータの服を着た女性は、日本家屋には似合わない。

 これは、サザエさんの中にゴシックロリータの少女が
 登場する違和感と置換して構わない。
 一方、ゴシックロリータ・イン・中世というのも、
 以外にも合わないのである。
「シャンプーを用意せよ」とか「ウォシュレットがなぜないのだ」。
 現代の人間がタイムリープして、中世に行き、
 そこの社会をわがままでかき回す、というコメディならありうる。
 だから、ヨーロッパに行っても、まったくなじまない。

 むしろ、ゴシックロリータの棲家は、「グランドゥール鷹匠」とかそう言った種類の
 一人暮らしようのアパートである。

 すべての服装はその適切なシチューションと場所を持っている。


こうした明白な理由によって、一般におしゃれだとされているような、
雑誌に載っているような服装の種類が多くの女の人にぜんぜん似合わない理由が真に理解できる。
それらの服装は、ファインダー越しで、
二次元の世界に押し込められるときに最も女性を美しくするが、
実際に奥行きのある世界で女性の姿を愛でるためには
著しく不適切な場合が多いのだ。

実際に、
最も異性を誘惑するのは、
微細な服装の動きであり、
そのニュアンスである。
衣擦れの音、
スポーティーな動き、
肉体とこすれあっている隠れている部分、
シルエットの変化、
こうした要素を加味した上で、
結局は動きやすいカジュアルな格好が最も女性を
美しく見せるという場合が少なくない。

特に隠れている部分は、
同時に隠している部分を補っていなければならない。

 視線を隠す眼鏡は、
 視線以上にその人の黒眼にならなければならない。

 足を隠しているスカートは、
 足の持っている伸びやかさを表現する特殊な歩行術において
 代替されなければならない。

 強調し、目を奪うような要素を取り入れるときには、
 そこに自分がそれによって抑圧したすべての
 全身の表情を込める勢いがなくてはいけない。


「電話」will being http://www.nils.ne.jp/~st3104/archives/archive/novel/tel.html
 一度目読んだときには、まったく内容が分からなかった。
 いまいちど、今度は、インターネットで掲載している白黒反転の横書きを読んだら、感情移入して、読むことが出来た。
 なんでだろう? すごく分かりやすい話だった。
・・・・・・・・・・・・・・・
起こっている出来事は、二つだけである。
受付嬢のような女と、なんかの契約だろうか、何度か出会った。
そのとき、電話番号を交換することがあった。
その結果、彼女が自分の電話番号にかけてくるのではないか、と延々と悩むことになる。
途中で、その悩みについて詩まで書く。
出来事を描写するのは、彼女との邂逅を語る部分と、
詩を書いたという部分のみ。
あとは、内面的な描写のみである。
雨も降らないし、台風も来ない。
ただひたすら考える。

内面描写だけで、まさにここまで考えられるというのは、すごいことだ。
けれども、読んでみると、ぼくにもかなり思い当たる思考回路である。
「記憶に襲われる」という感じに近いのだろうか。
ある女の印象が消えないのである。
さらに、「電話番号を交換した」という一種あまりにも単純かつ直接的なコミュニケーションの回路が一度ついてしまった。
その女についてどうでもいいことは分かっている。
別に好きなわけでもなければ、タイプでもない。
口説いたわけでもない。おもしろいと思って誘惑されたわけでもない。
それなのに、一度開いてしまったコミュニケーション回路のおかげで、彼女への無限の欲望が花開いてしまうのである。

こうしたコミュニケーション回路の接続は、結構起こる。
自分が意図しないところで、別のシステムの都合によって、
出会いが起こり、何かが伝達されてしまう。
この意味不明な伝達が時折起こるようになったのは、
とくにインターネットや携帯などの通信技術が発展したからではないだろうか。

さいきん、無料通話が可能であるとか言われて、あるソフトに登録したら、
そのソフトに登録しているあなたの友達である可能性がありますとか言って、
十年も会っていないんじゃないかな、と思うような知り合いの名前がずらずらでてきた。
あっという間に、たぶん、ぼくの名前もあちらに伝わったのだろう。
通信システムの変化がなければ決して思い出しもしなかった人たちとの、
奇妙な固有性の「伝達」が起こってしまったのだ。

そこから、さまざまな可能性を夢見る。
また、交際が復活して、仲良くなって、
自分の人生が変わっていく・・・ とか。
けれども、結局連絡しないだろう。
連絡しても、昔のような情熱の対象ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

シュレディンガーの猫だよなあ?
「もし」という、解釈だっただろうか。
「存在する可能性」が、「実際存在する仮定」となって、さまざまな原因になる。
そういう意味で、シュレディンガーの猫かな。
これは、論理的には誤りだが、心理的には真である
特殊な行為的命題の例です。
たとえば、有名なのは、パスカルの推論。
神が存在する可能性がある。
もし存在するならば、神は善であり、
われわれは信仰しなければならない。
神が存在しない場合には善も悪もない。
われわれは、信仰してもしなくでもどうでも構わない。
よって、われわれは信仰した方がベターである。
この推論は、「ぼくがピアノを練習したらピアノがうまくなる可能性がある」
ゆえに、その喜びを求めて「ピアノを練習しなければいけない」という推論と同型です。
可能であるがゆえにそうなければならない。
これは論理的には間違っているが、心理的妄想としては正しいのです。
シュレディンガーの猫もこの解釈が出来るなあ、おもしろいね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 自分と類似して、共鳴しているから、こんなに悩んでいるんだ、
という原因推定おもしろいなあ。
 ほかにもいろいろ思ったけれど、書き過ぎないようにします。
 「ピザが好きかな?」って、笑いました。
 「ピザでも食べれば?」って、思います。

 

コミュニケーション能力を把握するときには、それを量的な面で測定するのではなく、質的な面で測定すべきである。これは単なる倫理に過ぎないかもしれない。
 たとえば、言葉の数とか、沈黙の量とかでは、コミュニケーションの実態は把握できない。
 また、コミュニケーションの上手・下手というのも、実際は空虚な概念である。
 これは、自分が一度でも集団を運営する側、あるいは上の立場に鳴ったことがある人なら分かる簡単な話である。コミュニケーションが上手な人というのは、その人がその集団運営において、媒体となるもの、というような意味合いでしかありえない。

つまり、集団全体に働きかけるのに、ある一人の人間だけに働きかければ、全体へと波及するような、そうした特異点となっている人間は確かにいる。
 こうした人間を「上手」といっても、しょうがない。

 なぜなら、それは訓練されてそうなったというのではなくて、集団力動の中で偶然その人がそういう媒体に選ばれているだけだから。媒体になるのに、熟練も訓練も生まれつきの才能も努力も必要はない。ただ選ばれる必要がある。
 運命によって選ばれる必要があるだけの特性を、その人の本質の評価に用いてはならない。
 そうじゃなくて、こうだ。
 まず、どのような人間のコミュニケーションの実態も、ひとつは、まずその人の特性を示す特徴の一部と考えるべきである。
 その人間の本質や、遺伝的特性が反映しているものだと考えるのである。
 またもうひとつには、それは経験の蓄積によって獲得された戦略であると見なすべきである。
 つまり、ひとまず「そのひとが意図してそれを演じている、選んでいる」戦略として、その人の言動を把握し、評価しようとするのだ。
 このふたつとも、普通に考えれば、同じように事実に反しているかもしれない。
 ただもっと深い把握のための、階段の上部への一歩となりうる。


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